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日本クラブ講演 2010年2月18日 ただいま、ご紹介頂きました加茂佳彦です。本日は、多数の日本クラブ会員の皆様方を前にお話しをする機会を得ることができ大変光栄に思います。当地着任半年の新米総領事が皆様方に当地事情を解説するのも僭越でございますが、「これまで印象に残った新聞記事」という切り口でお話できればと思います。私の日頃の言動から漫談を期待されて来られた方も居らっしゃるかも知れませんが、今日は、真面目な話で行きたいと思います。つまらない長話につきあわせるようなことだけは避けたいと思うのですが、そうなった場合は、平にご容赦願います。 この半年の記事のなかで、私が特に引きつけられた英字紙の記事が二本あります。二つともスター・ブレティン紙の記事でした。一つは、昨年11月に列聖式が行われた聖デミアン関連の記事で、もう一つは、正月特集に出ていた、ハワイの未来に関するジョン・デイター・ハワイ大学教授の記事です。前宣伝とは若干異なる構成となり申し訳ありませんが、デミアン、ハワイの未来の順で取り上げ、最後にパールハーバーに触れたいと思います。 1.
聖デミアン 聖デミアン列聖でビックリするのは、その時間軸の長さです。デミアンが活躍したのは、19世紀後半の時代であり、死後百二十年もたってから、列聖の名誉が付与されたわけです。ハワイ各紙は、大々的に本件を取り上げ、ちょっとしたデミアン・フィーバーであったことを皆さんも記憶されていることでしょう。 聖デミアン譚は、モロカイ島を舞台として繰り広げられた一人の神父の類まれな人間ドラマとして語り継がれてきました。デミアン神父は、同島に強制的に隔離収容されたらい病患者の精神的救済と支援のために自らモロカイ島の患者隔離施設に移り住み、カトリック信仰を通じて患者に人間の尊厳の回復を促す活動に従事して生涯を終えました。デミアン神父の自己犠牲の尊さは誰しもが賛嘆するものと思われます。リリオカウラニ女王も同人の活動に理解を示した一人とされています。同女王が隔離施設を訪問したことはなかったようですが、モロカイ島を訪問して同神父と面会したということです。 デミアン神父は、近年になって聖人化の要件である複数の奇跡の実在がバチカンより認められ、死後120年ぶりに聖人になりました。米国で初の聖人の誕生なので、ハワイでの関心の大きさも宜なるかなとは思いますが、ハワイ系の人々がデミアン神父の列聖化に何故かくも熱狂するのかが腑に落ちません。ハワイの伝統は、多神教、アニミズムであり、その表現がフラでありポリネシアの合唱音楽であるはずです。ハワイアン・アイデンティティーの確認乃至高揚にベルギー人神父の奇跡がそんなに重要なのか。リリオカウラニ女王との結びつきを強調することにより、人種や文化を超越したハワイの身内の一人として受け止めているのか、其処の辺りを知りたいと思いました。 そんな時、スター・ブレティン紙は、デミアン神父を巡って、19世紀後半の当時、あの「宝島」の作者であるスティーブンソンと当時の他の神父の間で激しい中傷合戦があったことを紹介していました。スティーブンソンは、イギリスから西サモアに定住する前にハワイを訪れ、モロカイ島でダミアン神父と会い、友情を結びました。ダミアン神父は、らい病患者支援活動中にらい病に感染して亡くなり、このことが自己犠牲の精華とされる所以ですが、同神父への評価は当時必ずしも一致したものではなかったようなのです。スター・ブレティン紙によれば、同神父は実は色々と問題の多い人物で、らい病発病も自らの放蕩のせいだという内容の告発が同時代の聖職者からなされたのです。この告発にダミアン神父の友人をもって任じるスティーブンソンが激しく反駁し、ダミアン神父を擁護しました。 今回の聖人化により、この論争に判定が下されたことになり、歴史が定まることになろうとスター・ブレティン紙は述べています。このエピソードを載せたスター・ブレティン紙の意図は知りませんが、聖人といわれる人でも、叩けば埃がでてくるということなのでしょうか。人間社会の理解の要諦は、単純に見ることではなく、複雑に見ることだということなのでしょうか。いずれにせよ、私にはこのハワイで我々の意識が及ばぬ別の世界があることに妙に心が疼きました。 これって別におもしろくも何ともないと感じられる方も多いと思いますが、私は、このダミアン神父列聖化までの過去120年のハワイの歴史を、この列聖化を実現させた人々の視点で見ることに興味をそそられます。聖デミアンそのものがどれだけ係ってくるのか分かりませんが、我々がなかなか窺いしれない伝統的なハワイ社会の内部構造が透けて見えるのではないか思われるからです。ハワイには白人来訪以来、日系人が窺い知れない別の世界があり、それが実際にハワイを動かしてきたのではないかという問題意識です。日系人や他のアジア系移民の視点からのハワイ近代史も重要で、日系人に応分の歴史的位置が与えられるべきものですが、近世ハワイの歴史は、主に、白人、ハワイ人、キリスト教(プロテスタント宣教師にカトリック)、ハワイ王家といった登場人物により書かれてきたはずです。彼らが現在のハワイ社会でどのような立ち位置にいるのか、どのような利害関係を結んでいるのか、とても興味があります。この知識は、日系人、日本人がハワイで末永く繁栄を謳歌するための戦略的思考を深める上で重要なインプットになるものと確信します。このハワイには、我々日本人の小宇宙があり、それはそれで社会の主流の一部を占め、安心と満足を与えてくれているのですが、別の小宇宙もあり、それとの交際や関与を忘れてはいけないということを、聖デミアン列聖は、図らずも諭してくれたのではないか。一人よがりの解釈かも知れませんが、私は、そのようなことを感じました。 2.
ハワイの将来 さて、露払いの聖デミアンで時間を取ってしまいました。本日の主題は、ハワイの未来についてです。未来といっても何か。ジョン・デイター教授は、本年年頭のスター・ブレティン紙への寄稿文で人口動態の重要性を指摘しました。これが私の目を引きました。今から20年後は、ハワイの人口構成が大きく変わり、日系人が減少し、代わりに、白人、フィリピン系、太平洋地域出身者の人口が大きく伸びるというのです。この人口動態予測は日本人にとって気がかりなものであり、あーそうですかと簡単に聞き過ごすことができません。もしそうならハワイがハワイでなくなってしまうからです。 日本人にとってのハワイの魅力の最たるものは、ここが他の外国とは違い居心地がいいと感じることではないかと思いますが、如何でしょうか。何故ハワイは居心地がいいのか。それは日系人がハワイ社会の主役の一人として振舞っていることと無縁ではないでしょう。どうして主役として振舞うことができるのかといえば、数が多いということが先ず挙げられます。数も多いし、それに応じて社会的地位が高い人も多い。社会の隅々まで日系人の存在が強く感じられるような社会が出現しているハワイ。日系人の社会進出に比例するように、日本語、日本文化、日本の伝統が思わぬ程社会に浸透しているハワイ。元よりハワイは、自然環境に恵まれ、地理的にも日本に近く、日本人観光客にとって魅力の多い土地ですが、何といっても、日系人社会が営々と築き上げたこの社会インフラの圧倒的充実ぶりがハワイの魅力の大きな要因でしょう。 日系人側も日本人旅行者がハワイ第一の産業である観光に大いに貢献していることに互恵関係を見出していることでしょう。日本が栄えれば栄えるほど、日本が重要性を増せば増すほど、ハワイの日系人社会も自らの影響力の維持拡大に有利な状況を見出すことでありましょう。このハワイに幸いにも出現している我々日本人とハワイの日系人の間の互恵関係を維持強化してゆくのが日本人、日系人双方の利益であると確信するものであります。総領事館の活動も、大雑把にいえば、すべてそのための活動であると言うことができるのではないかと思います。 ワイキキに行けば、日本人観光客が数多くビーチウォークを闊歩しています。新聞をみれば日系人の名前を良く見かけます。テレビのニュースショーも司会は日系人です。州議会では日系議員がハワイの今日的問題を議論し、学校や警察や病院を日系人が仕切っているハワイ。こんなところは世界広しと言いえどもハワイ以外ありません。我々誰しもがこの状態を当たり前に思い、これが未来永劫続くと思い込んでいます。ハワイだけはいつまでも特別だと。此処に来さえすれば、これからもいつでも日本人にとって格別の地ハワイのすべてが満喫できると。 ところがデイター教授は、ハワイも遠からずそうではなくなると不吉な予測をするわけです。確かに、米国本土では静かに、確実に日系人集団のマージナライゼーションが進んでいます。原因は、相対的な人口規模の減少です。 私も、今度が三度目の米国暮らしですが、これまでは、マイノリティーの一人として米国社会でひっそりと生きてきたという感じがします。また米国東部(マサチューセッツ州)や、南部(テキサス州)で会った他の日本人、日系人もハワイで見かける日本人、日系人とは何となく違う感じであります。マイノリティーは必ずしも経済的弱者であるとは限りません。日系人や日本人の場合、一定の経済的成功を収めている人が多数を占めるものと思われます。 民主主義国の場合は、数が重要です。数が揃わないと政治的発言権を確保できないからです。日系人社会は米国で人口が相対的に減少する状況下にあります。最も古いアジア系の移民集団の一つであるとともに、人口規模でも最大派閥の一つであったものが、今では、6、7番目の人口規模グループに過ぎません。選挙でグル―プの利益を代弁する議員を選出しようとしてもできなくなってしまいました。このような事情もあり、日系人はグループとして政治的活動に関与することに関心を示さなくなってきたと言われます。日系人のアイデンティティー維持の問題も出てきています。日本語をはじめ、日本文化に全く関心を寄せない日系人が出てきているのです。 これはどの移民集団でも起こる自然な展開なのかも知れません。ヨーロッパ系の移民が何代も経た後で出身国や民族性をどれだけ意識するかは疑問ですし、むしろ、二世代以降はアメリカ人としてのアイデンティティーのみを持つ人が多数を占めるのではないかと思われます。日系人だって同じことで、いつまでも、日本文化だ、日本語でもなかろうというわけです。 ただ欧州系移民の子孫は、少なくても一世代を経れば主流派の白人系米人と見なされる点で日系人とは異なります。彼らは個人の資質で差別されることはあっても、民族的な理由で社会的な不利益を受けることはありません。これと比べて日系人の場合、米本土では4代、5代経てもマイノリティーです。建前はともかく、いかに成功していても社会的意識として現実に、例えば日系人4世を主流派とは認めないでしょう。この点は明らかに不利で、大きなハンデを背負い込んでいます。 このハンデを克服するために、日系人アイデンティティーを保持するのがよいのか、それともそれは完全に捨て去り、米国社会との同化をアピールすべきなのか、対応は分かれるものと思われます。実際は、時を経るほどに、後者しか選択肢がないのが実情なのかも知れません。他方でアジア系移民グループのなかでは、中国、インド、ベトナム、韓国、フィリピン、タイ、カンボジア、インドネシア、パキスタン、バングラデシュ等のグループが急速に台頭してきており、日系はアジア系の中での主導権の維持にも困難を感じるようになって来ていると言われます。ハワイ等の例外を除き、数の論理に圧倒され、政治的存在感を薄めています。この状況下で、日系人アイデンティティーは徐々に後ろに追いやられ、最近ではアジア系米人(エイジャン・アメリカン)という新たな概念が政治の場面を中心に盛んに使われるようになりました。白人、黒人、ヒスパニックという相手を念頭に、アジア系移民グループを一括りにして表現するときに便利な用語ではありますが、アジアにおいては、アジア人という概念は確立しておらず、多分に人工的、便宜的な用語です。 日系人が、他のアジア系移民の先駆者として築いてきた過去の貢献や業績にも拘わらず、アジア系米人社会内の一少数派として表舞台から去り背景に溶け込んでしまう傾向にあることは実に残念です。日系人がアジア系米人のグループの中でも本来発揮すべき主導権や名誉ある地位を保ち、同グループの重鎮として大いに存在感を示し続けて欲しいと願うものです。日系人によるアジア系米人社会への歴史的貢献は抜群です。彼らの苦難や苦闘が、米国におけるアジア系移民の公民権獲得拡大に決定的な役割を果たしてきたことは何人も否定できません。数の論理は明解で冷酷ですが、台頭する中国系といえども一目置くような存在であり続けて欲しいと願うものです。 さて、ハワイの未来がいつのまにか米本土の日系人の話になってしまいました。デイター教授は、この本土における日系人の状況が2030年にはハワイでも起こる可能性があると予想しているのです。いままでは日系人中心の政治や社会でしたが、それが変わってくるということです。同教授は、人口動態に起因する課題の他に、ハワイには、石油中心のエネルギー依存体質からの脱却、農業の復興(観光用の開発ではなく、食糧生産をして、自給体制を強化する)、ローン借入に依存する消費を頼みにする従来型の米国市場経済からの脱却という課題があると指摘しています。また温暖化対策により経済成長自体が抑制され、昔のような成長志向のみの経済運営ができなくなるとの予測もしています。 1973年から13年間、ハワイ州知事を務めたジョージ・アリヨシ氏もハワイに内在する脆弱性への懸念を抱いています。アリヨシ元知事は、昨年末「ハワイ:過去の50年、これからの50年」と題する小冊子を自費出版され、これをハワイ州のすべての高校に配布するように手配されました。アリヨシ元知事の論文は、ハワイ州民であるすべての青年へのメッセージとなっており、特に、日系人とは特定されていませんが、人口の四分の一を占め、自らの民族集団である日系人へのメッセージでもあることは明らかです。このアリヨシ元知事の問題提起は、妥当かつ時宜を得たものであり、ホノルル・アドバタイザー紙もスター・ブレティン紙も同元知事のイニシアティブを好意的に評価しています。 ではハワイが今後50年元気でやって行くには何をしたらよいのでしょうか。アリヨシ元知事は、観光のみに依存しない持続可能な産業の育成と新エネルギーの確保が二大課題であると指摘します。そしてハワイの未来は若者のイニシアティブと行動に掛っているとし、彼らの奮起を促しています。同知事の最後の言葉は示唆に富むものです。彼は、ハワイの未来はハワイ住民本位の視点で考えるべきだと訴えています。彼によれば「ハワイは他では見られない社会であり、特別(スペシャル)」なのです。 アリヨシ元知事も将来のハワイをハワイ全体の見地から心配されているのですが、日系人の将来という問題に立ち返って見て、相対的に人口が縮小し、人口密度が低下する日系人社会は、この人口動態変化に対して何をなすべきなのでしょう。日系人社会の取りうる対応は、とりあえず、次の二つが考えられます。第一は、自然体で臨み従容として運命に従うことです。第二は、アジア系米人としての新たなIDを身にまとうことです。米国本土化の道を辿ることだとも言い代えられましょう。では第三の道はないのか。アリヨシ元知事の指摘にもあるように、ハワイは特別なので第三の対応もありうるのではないかとの期待が膨らみます。実はそれがあるような気がいたします。それが「カマアイナ」精神を一層育み、一体感を醸成することです。 ハワイには曰く言い難い島国感情があるとよく言われます。島で生まれ、育った者同士が共有する仲間意識です。この仲間意識は、民族性を超越し、白人でも、日系人でも、ハワイ人でも島育ちの人間に共有される文化的連帯感だということです。米本土から来る白人は、このハワイの目に見えぬ思わぬバリアに困惑するといいます。だからハワイは肌に合わないと感じ、再び本土へ帰る米国人も少なくないと聞きます。このカマアイナ精神が日系人のアイデンティティー危機を救うことになるのでしょうか。仮に救うことができるとして、どのように救うのでしょう。 この問いへの答えは、カマアイナ精神の形成に、実は、日系人が大きく係っているという事実を挙げることができます。ハワイ諸島で出会った異文化がお互いに交流や相互作用を及ぼす中で、醸成されたハワイ人としての意識がカマアイナ精神です。ハワイ移民開始後、ハワイ諸島の人口構成で多数派を占めた日系人はこのカマアイナ精神の形成過程でも大きな役割を果たし、日本語や日本的文化や伝統、慣行が、カマアイナ精神の構成要素として深く取り込まれているのです。ハワイに根付く多文化がカマアイナ精神の基盤を支えますが、その支柱の一つが日本文化なのです。カマアイナ精神の中にも日本は生き続けているのです。 カマアイナ精神は島育ちが共有する仲間意識であり、観念的によそ者を不利に差別するわけですが、主に白人に対抗する性格が強いと思われます。その形成過程からも元々カマアイナ精神と日本人との親和性は強く、日系人がカマアイナ主流派の一角を占める限り、ハワイを訪れる日本人はこれからも居心地の良いハワイを感じることができるでしょう。現在のハワイでは、日系人が日系人としてのアイデンティティーを持つことは、社会の主流派であることの証であり、誰も、自らをアジア系米人だとは称しません。そんなことする必要がないからです。日系人という力強いアイデンティティーが健在であり、更にその外側は、カマアイナという「ハワイ人」としてのアイデンティティーにより保護されています。やがて、日系人としてのアイデンティティーは、今ほど、強く主張できなくなる日が来るかも知れませんが、日系のDNAが色濃く残るカマアイナ精神に自己同化の場所を見出すことは難しくはないでしょう。カマアイナ精神がアジア系米人意識のハワイへの浸透を何時まで阻止し続けるか予断できませんが、少なくともアジア系米人とはまた別個のアイデンティティーとして、日系人にはカマアイナ精神を手放して欲しくないと思います。 多少誇張してお話いたしましたが、ハワイ日系人社会ですら盤石ではなく、時代は移ろうものであることを感じ取って頂ければと思います。カマアイナに日系人や日本人の未来の一部があるなら、カマアイナ精神の一層の涵養に今から努力する必要もあります。現在の抜群の日系人社会インフラが揺るがない間に、我々も将来を見据えて戦略的に手を打っておくことが重要ではないかと思う次第です。 3.
パールハーバー 最後にパールハーバーに象徴される第二次大戦という歴史的遺産と現代のハワイに暮らす日本人である我々との関係について私見を述べてみたいと思います。パールハーバーのあるホノルルに暮らす日本人にとって、毎年12月になると気が滅入ってきます。新聞には毎年必ず特集記事が掲載され、どんなに避けようとしても第二次大戦に纏わる歴史問題と直面せざるを得ないからです。何せ、パールハーバーといえば、米国の国民的熱狂の現場そのものですし、それは、開戦直後も今も変わりがありません。パールハーバー・デーの日にはどんな顔をしていればよいのか、私も昨年のパールハーバー・デーの式典出席の前は何となく不安感を拭い去ることができませんでした。 この問題は、人の生死、国の存亡、公正と正義、名誉と犠牲など、凡そ、人間の到達した最も深刻な概念や奥深い真理に係ることであり、軽薄には取り扱えないものであります。また今日、日米は同盟国として繁栄し、恩讐を超えて、かけがえのないパートナー同士の関係を築き上げており、この関係の維持、増進は我々にとり最優先の事柄であります。更に我々は、この素晴らしいハワイで職を得、また、日々を愉快に過ごさせて頂いております。 このような状況の下にいる日本人として、パールハーバーに何を思い、第二次大戦をどのように受け止めるべきなのかを論じることは、正直なところ私には手に余ることでございます。非見識を晒すのみに終わりかねないことを危惧しますが、皆様が夫々のお立場で本件と向き合われる際の一つの参考材料になればと思いまして、拙い私見を申し述べてみたいと思います。 ホノルル着任以来、当地で、第二次大戦の歴史認識問題に「晒される」機会が複数回ありました。その最初が、9月2日の戦艦ミズーリ号船上での降伏文書調印記念式でした。その後、秋には、海軍舞踏会、海兵隊舞踏会に招待され、そこでもちょっとした遭遇がありました。そして勿論12月7日のパールハーバー・デー式典です。これらの機会を通じ、パールハーバーのレガシーを日本人としてどのように飲み込むかにつき、自分なりの感想を抱きましたので、それをお話します。 これらイベントにおいて共通していることは、真珠湾でもミズーリ号でも生き残りのベテランがいることです。彼らを無条件で顕彰することが大きな目的となっているということです。他者が彼らの勇敢な戦いぶりを称えたり、自らが戦闘中のエピソードや活躍の様子を述べたりして、在りし日を偲びます。必然的に、日本は悪役ですが準主役でもあり、日本の代表が居辛くなるような対日非難集会にはしないという意味で主催者側も気を配ってくれています。そうは言っても、誇張や日本を貶める表現に激しさが加わることもあり、ジャップとか残虐非道とか闇討ち攻撃とかの言葉を聞く場面もあります。 他方、ベテラン顕彰の要素とともに、リカバリーの成果を強調することも重要な要素になっていると感じました。戦後の日米安保体制に基づく日米の信頼関係の醸成は地域の平和と繁栄の基盤を与えており、戦火を交えた国同士が戦後築きうる関係としては望みうる最善且つ模範的なものであると称えることを忘れていません。ベテランの愛国心への尊敬と将来に向けた日米安保関係の重要性強調の二つのバランスを取ることに留意しているようにも観察されます。これは、日本政府の代表としてイベントに参加している私にとりまして大変ありがたく感じたところです。ということは、皆様方も、このような行事に臨まれる時は、米軍ベテランの活躍に敬意を表し、戦後の二国間の友好協力関係を称えることに留意されたら宜しいかと思います。また戦後年月を経た今、「日米良く戦へり」の感慨を抱く米軍ベテランも多いと思います。そのような方には、日本の兵隊もお国のために良く尽くした。このような武人の献身と犠牲が今日の日米の繁栄の礎だと称賛するのも良いのではないかと思います。いずれにせよ、和解に向かう気持を大切にすることで双方が益すると思います。 他方、戦争責任や、戦争の背景、日本の開戦意図など、本格的な歴史認識につき一般の米人が抱く通説に挑戦することは止めておいた方が無難でしょう。通説とは異なる我々の解釈や見方も当然あるわけですが、彼らにすれば、これはもう勝った戦争で、決着していることなのだと思います。ニュアンスの違い等をやんわり指摘しても、まともに取り合わず、やはり日本は反省が足りないと思い込むだけでしょう。こういった複雑な問題を掻い摘んで外国語で説明することは至難の業ですし、そもそも米側資料は秘匿されているものも多く、肝心な事柄の全貌を掌握することが困難な状況にあります。未だに意味のある意思疎通を行うことが簡単ではないのです。 勝てないケンカはやらないとしても、それではいつでも笑うことを強要されているピエロみたいではないかと嘆かれる人もいらっしゃるでしょう。私は、日本はピエロではなく「善き敗者」として振舞ってきたと思います。既存の秩序に挑戦する(新たな戦争を起こす)ことによるのではなく、現在の国際構造、国際ルールを尊重しつつ、自ら戦勝国の作った戦後の国際関係ゲームの規則に率先して従って、そこで業績をあげることで自己主張をしてきたのです。この自己主張を支えたのが、自らの深い反省と新生日本への大きな期待であったと推測します。我が国が今日、平和を享受し繁栄を謳歌できるのも、「善き敗者」作戦が奏功した面があると思います。 米国の戦後の対日政策は、米ソ関係の変化のなかで大きく方向転換し、それが日本にとって幸いしました。当初米国は、戦後も日本を完全に無力化状態に置き、できるだけ国力の回復を阻止するための対日政策を策定し、実施していました。この対日政策がその後も続いていたら、日本の復興もかなり時間が掛ったものと思われます。現実には、ソ連が戦後の欧州を巡って米国に対し主導権争いを仕掛けてきて、戦後世界は米国の当初の目論みとは異なる展開となりました。この事態を受け、米国は、日本を無力化する作戦を放棄し、むしろ、対ソ前線の前方展開拠点として日本を育てていく作戦に方向転換しました。この対日政策の大転換があったからこそ、対日講和条約も自衛隊創設も沖縄返還も実現したわけです。この大転換を齎してくれたのが、あのソ連だったとは、歴史の皮肉としか言いようがありません。 事実が必ず歴史として認定され、後世に残るわけではありません。これまでの人類の歴史を通じて、敗者は手の内をすべて晒されてしまい、勝者には情報操作を行い自分に有利な歴史を叙述する権利が事実上与えられてきました。第二次大戦に関しても、連合国側は、大なり小なり、この既得権を行使して第二次大戦をシールし、前に進んでいることでしょう。日本も、小異を捨て、それを受け入れるより他に現実的な選択肢はありませんでした。勿論、当時、日本を破滅に追いやった自らの軍国主義から脱却するために、米国の諭す理念や論理に未来を賭けてみようという時代精神が漲っていたことも事実であり、世界の通説が示す歴史認識に積極的に同調する日本の知識人も数多くおりました。彼らの影響は、戦後の長きにわたり、日本人の歴史観に大きな影響を与えてきました。 ところで中国(国民党政府)も連合国側の一員ですから、日中戦争の歴史記述に関して、この事実上の権利を活用することを考えたとしても不思議ではありません。中国が日本に対して歴史カードを安心して使うことができるのは、アメリカがそのカードを配ってくれたとの思いがあるからかも知れません。アメリカと中国は戦勝国同士で、戦勝国として共同して歴史認定の作業に当たりました。中国の主張は、基本的に、米国が主導して確立した歴史認識の上に立っているのです。 事実は敗者の友です。歴史認識において事実は政治状況の前に全能ではありませんが、本来、普遍的な説得力を持つものです。政治状況は移ろいますが、事実は不変です。歴史が事実に依拠するよりも、時の政治状況により叙述されてきたことは、古今東西の常でした。それは事実の集積が不十分であったことと無関係ではないようにも思われます。日本人の文化力は、事実の収集力、記録力、歴史への公正な態度(自らの非も隠さず、事実を歴史認識の唯一の基準する)を保持する器量にも示されると確信いたします。 勿論我々には戦後の年月があり、敗戦という事実があります。歴史認識問題にも政治的な区切りをつけて前に進んで今日に至っている歴史があります。ただ、歴史的事実を出来るだけ忠実に叙述する努力は、今後も続けられるべきものであると考えます。パールハーバーに象徴される20世紀中葉の日本の失敗の歴史も、歴史家の間で未だ諸々の議論があり、その意味で歴史として完全に確立されているわけではありません。我々は、諸々の考慮から公論として今それを主張せずとも将来のその時に備えて、本来歴史の最も核心的な要素であるべき事実関係の採集に心がけ、それを良く吟味し、整理、蓄積しておく必要があると思います。 最後に、我々として把握しておくべきパールハーバー関連の歴史的事実を、二、三、念のためご紹介したいと思います。 第一は、勿論、日本軍によるサプライズ・アタックです。スニーク・アタックとか呼ばれることもあります。これって本当にサプライズ・アタックなのでしょうか。米国民は、日本から闇討ちを食らって真珠湾では大損害を被ったという政府の説明を信じ、現在に至るまで日本軍の真珠湾攻撃といえば、必ずサプライズと添えないと気が済まないように刷り込まれているようです。宣戦布告の通達が2時間遅れたが、米軍は日本軍の暗号を解読しており攻撃を予知していた等の細かな争点はありますが、彼らにそんなことを主張しても取り合いません。ホー・フムで終わりです。やはりサプライズ・アタックで卑怯だったのでしょうか。 戦後、連合国側は日本の戦犯を裁くために極東裁判所を設けました。恣意的な管轄権や裁判の運営など多くの問題を抱える裁判で、政治ショー的な意味合いが強い裁判でした。この裁判において、当初連合国側は、日本の真珠湾攻撃はサプライズ攻撃で国際法違反であると主張し、起訴理由の一つとしていました。ところが、審理が進むなかで、連合国側は、真珠湾攻撃の違法性を起訴理由として維持することを諦め、撤回しています。何故撤回したのかといえば、起訴理由が沢山あるので真珠湾を持ち出さなくても戦犯容疑者を有罪に出来るためと説明されていますが、真相は不明です。いずれにせよ、戦勝国側による報復のための一方的な裁判においてさえも、サプライズ・アタックは認定されなかったという事実があります。 第二は、原爆投下は真珠湾のお返しだという主張です。原爆投下はさすがにしっくりいかない思いを抱く米国人も多いことでしょう。米兵100万人を救ったとか、戦争終結を早めたとか抗弁しますが、そんなことが問題なのではありません。そこには米国の国益が掛っていたことでしょう。目的達成のためには手段を選ばなかったこと、一度ならずも二度もルール違反をしたこと、それをそうとは認めないことこそが問題なのです。要するに米国は男らしくなかったのです。原爆使用を合法化する試みが事後なされていますが、当時は、都市への無差別攻撃は国際法違反であったと見なすのが多数派の意見です。一方、真珠湾攻撃は、手術的な正確性を持って軍事施設に限定して遂行された軍事行動であり、当時の国際法に照らして違法なものではありませんでした。 第三は、真珠湾の経験は、実は、米軍にとって決して誇らしいものではなかったということです。日本軍の攻撃がサプライズであるはずがありません。例えば現在の米加国境は平和そのものですが、この国境をカナダ軍がある日突然戦車で侵攻してきたら、それはサプライズでしょう。でも当時の米国は中国への武器輸出や軍事顧問団派遣などで日中の軍事紛争に関与しており、且つ太平洋方面でも米国の石油禁輸措置の発動後は実質的に臨戦態勢下にあったわけです。真珠湾攻撃撃退の失敗は、要するに、準備を怠っていた、日本軍の攻撃能力を過小評価していたということに他ならないと思います。効果的な応戦も出来ぬまま大損害を被ったわけですから、軍事的には失敗例であり、その屈辱の日をそっとやり過ごすという方法もあるように思いますが、ここでの慣行はどうも違うようです。攻撃は最大の防御なりとの格言がありますが、米国当局は、真珠湾での応戦失敗に対するダメージ・コントロールの一環として広報面を含め積極的に手を打ったのだと思います。「リメンバー・パールハーバー」の合言葉を生み出し、欧州戦線への参加を決め、ついには、原爆投下との因果関係にまで言及して、パールハーバーは日本軍の卑劣さと米軍の負けじ魂を奮い立たせた聖地であるとの認識を米国民に植え付けることに成功し今日に至っている。そんな気がします。勿論、パールハーバー戦での米軍将兵の英雄的な個別戦闘行動は多数あるでしょうし、大勝を収めた戦争の犠牲者を称えることはどの国でも行ってきていることですが、パールハーバーに関して言えば、軍事的失態を覆い隠すために、殊更、政治宣伝攻勢に出てバールハーバー戦を美化してきたという事情があるように思われます。 他方、日本軍の空爆による被害の回復が早かったことは事実で、この点にこそ、パールハーバー・デーの今日的意義があるのでしょう。ハワイの軍民が一丸となって大損害を受けた港湾施設を復旧させ、破損した戦艦等の修理を行い、戦列を立て直した業績は、地味ながらその後の戦局に大きな影響を与えた快挙でありました。敵ながらあっぱれです。厳しい環境で人間としての尊厳を失わなかった強制収容所内の日系人や日系二世志願兵による英雄的奮戦と共に、ハワイが胸を張って誇ることのできる貢献であったと思います。ハワイのこのがんばりにはハワイに暮らす日本人の我々も大いに敬意を表するのが武士道の教えでもあると思います。 まとまらぬ長話になってしまいましたことをお詫びいたします。ご静聴下さりありがとうございました。 以上 三人の先生方には大変興味深いお話をしていただきました。テーマは薙刀であり、エビの養殖であり、大学院での日本研究でありました。全く異なるテーマではあったのですが、先生方の人生、生き様が語られたという意味では、三先生方のお話には、相通じるものがあると感じました。三浦先生は、薙刀普及指導を通じての人間交流、異文化交流の最前線を生き生きと語られました。赤嶺先生は、一般には馴染みのない車エビの養殖という日本発の技術がいかに私達の食生活を豊かにし、国際的な認知を得てきたかを分かりやすく解説して下さりました。企業戦士として生涯を掛けたエビ養殖への夢と誇りが伝わって参りました。ダイクストラ先生は、日本のベストマインドが米国の一流大学院での知的格闘に如何に臨み、如何に勝ち上がるかにつき、臨場感溢れた体験談をご紹介して下さりました。実際、博士号取得を勝ち得るかことがどんなに大変か凡人の想像を絶するものがありますが、果敢に挑戦された先生の挑戦が生き生きと語られました。 三人の先生方のメッセージを是非とも聞かせたいのが日本の若者たちです。三人の先生方は、夫々、海外に雄飛され、日本を意識しながらそれぞれの道で大成なさいました。自らの潜在的可能性を最も引き出す場所を広く海外にまで求めて、見事にその才能を開花させたのです。この進取の気性こそ、いつの世でも、どこの国でも、最も大切な資質です。チャレンジ精神と言いかえることもできます。日本の若者は、少し内向きになりすぎていないか心配です。巣籠りとか、縮小安定志向とか形容される姿勢を取る若者が多いと言われておりますが、若者の特権はチャレンジできる時間と環境を持っているということだと思います。三人の先生方の生きざまを知れば奮い立つ若者も少なくないと思いますので、先生方には是非日本でご講演をされ、日本の若者に元気を届けて頂きたいと思うのであります。 最後に、ハワイは東西の交差点であると言われます。ここホノルルにも色々な経験や経歴をお持ちの方が在住しており、講師ないしリソースパーソンに事欠きません。木曜午餐会はここハワイの強みをうまく生かして、会員の皆様に素敵な時間をお届けになっていると思います。これはハワイが与えてくれる特別の恩恵でもあります。木曜午餐会において、このハワイの恩典を十分に享受され、これからのシニアライフを更に充実したものにしていってもらいたいと思う次第でございます。木曜午餐会の更なるご発展をお祈りして、結びの言葉といたします。 ありがとうございました。 |
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