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平成22年6月8日(火)11:00-11:45 於パール・ハーバー米海軍基地停泊中海上自衛隊練習艦かしま艦上 加茂総領事講話 1.はじめに 在ホノルル日本国総領事の加茂でございます。海上自衛隊練習艦隊の皆様、ハワイにようこそいらっしゃいました。徳丸(とくまる)海将補、下(しも)1等海佐を始めとする練習艦隊司令部の方々の御統率の下、中尾1等海佐率いる練習艦かしま、佐藤2等海佐率いる練習艦やまぎり、岡見2等海佐率いる護衛艦さわゆきから成る我が国練習艦隊が今朝、ここパール・ハーバーに無事に到着されたことを心からお喜び申し上げます。 海上自衛隊幹部候補生学校第60期一般幹部候補生課程を修了された初級幹部の皆様、先月26日に東京の晴海を出港され、10月28日に再び晴海に辿り着くまでの世界一周の航海の中、この地が最初の寄港地であると聞いております。太平洋上での厳しい訓練の日々を経て、本日、観光地として有名なハワイに着かれ、まずは一息つかれているかもしれません。11日までの短い間ではありますが、どうかハワイを満喫し、次の航海に備えて英気を養って頂けたらと思います。 昨年こそ当地への寄港は無かったとはいえ、海上自衛隊練習艦隊は、ほぼ毎年のように当地に寄港していると伺っております。皆様も御承知のとおり、今年は、現行の日米安全保障条約が締結されてからちょうど50年という記念すべき年に当たります。そのような節目の年に、日本、ひいては海上自衛隊との縁が深いここハワイに、将来の海上自衛隊を背負って立つ若い幹部の皆様が遠洋練習航海最初の寄港地として訪れたことは、日米双方にとって非常に意義深いことだと思います。 本日は、そうした皆様方のハワイ御来訪の意義について、お話をしたいと考えております。11時45分まで頂いた御時間を使い、大きく分けて「ハワイと日系人」及び「ハワイと軍」の2部構成で話をしたいと思います。私の拙い講話が、観光面ばかりでなく、我が国とは色々な縁で結ばれているこのハワイへの理解を深める上での一助になれば、大変有り難いと思っている次第です。 2.練習艦隊のテキサス訪問 最初から脱線して申し訳ありませんが、本題に入る前に、私と練習艦隊の関係に付き触れてみたいと思います。先ほど、艦上で栄誉礼を賜るという光栄に浴した訳ですが、実は、5年前、当時の在ヒューストン総領事としてこの同じ「かしま」の艦上で栄誉礼を受けた経験があります。2005年の練習艦隊はテキサス州ガルベストンに寄港されました。久し振りのテキサス訪問ということもあり、現地の邦人社会は若き幹部候補生の方々をロデオやバーベキューで熱烈歓迎致しました。私も、その仲間に加わり愉快な一時を過ごしました。加えて、私は、実習幹部の陸上日程としてニミッツ提督生誕の地フレデリクスバーグ行きを推薦しましたところ、これが採用されまして、実習幹部の皆さんは片道4時間以上かけてテキサスの大地をバスで移動して内陸の丘陵地帯にある小さなドイツ系移民の町まで行く羽目になったのです。 フレデリクスバーグにあるニミッツ家はホテルを経営していて、そのホテルの一角が現在はニミッツ博物館となっています。更にそのすぐそばに、全米でも一、二を争う太平洋戦争博物館が設けられています。旧日本軍関係の陳列品も数多くなかなか見応えがあります。太平洋戦争博物館には日本庭園が併設されています。この日本庭園はニミッツ提督が私淑していた東郷平八郎提督に因んで「東郷ガーデン」と呼ばれ、地元の人々に親しまれています。この「東郷ガーデン」の建設費の一部は海上自衛隊関係者による日本国内での募金活動による浄財で購われました。このテキサスの田舎町がこんな形で日米交流の最前線となり、友好関係が深まったのです。私は、このようなフレデリクスバーグに将来の海上自衛隊を背負う若き実習幹部の皆さんに来てもらい、日米両国のこれまでの歩みを振り返るとともに、日米の名提督の友情に思いを馳せて頂きたかったのです。 さて、道草はこの辺にしまして本題に入りたいと思います。 3.ハワイと日系人 日本人にとってのハワイの魅力の最たるものは、ここが他の外国とは違い、居心地が良いと感じることではないかと思いますが、如何でしょうか。何故ハワイは居心地が良いのか。それは、日系人がハワイ社会の主役の一人として振る舞っていることと無縁ではないでしょう。どうして主役として振る舞うことができるのかと言えば、数が多いということが先ず挙げられます。日系人は、ハワイ州住民の約2割を占めており、在米日系人の約4分の1がハワイ州に居住しているということです。 これ程多くの日系人がハワイにいるのは、昔から多くの日本人移民がハワイに渡ってきたためですが、1868年、つまり明治元年に「元年者」と言われる148人の移民が渡ったのが最初です。ただ、彼らは、元々徳川幕府と移民ブローカーとの協定の下で募集された移民であったため、発足直後の明治政府から認められておらず、パスポートすら与えられていない、いわば非合法状態にあったとのことです。 その後、1881年、ハワイ王国第7代国王カラカウア王が日本を訪問し、明治天皇と会見したのですが、その際、カラカウア王は、ハワイにおけるサトウキビ栽培のための労働力を得る目的で日本からハワイへの移民を要請しました。因みに、カラカウア王は、史上初めて日本を訪れた外国の国家元首でした。この要請、つまり「官約」に基づき、1885年から、いわゆる「官約移民」が合計2万9000人程ハワイに渡ってきました。実は、今年は、官約移民来布125周年という記念すべき年でもあり、つい先日、6月5日には、米国唯一の王宮であるここハワイのイオラニ宮殿において、盛大な記念式典が行われたばかりです。 その後も、「官約」によらない「私約、自由、呼寄移民」が合計18万9000人程ハワイに渡ったということです。こうして、ハワイにおける日系人の数は増加していき、日本語、日本文化、日本の伝統もハワイに浸透していきました。今でも「ベントー」や「オカズ」といった日本の言葉がハワイの地元の人々の間で聞かれますし、日本で見られるようなお祭りその他の様々な行事も、ハワイでは盛んに行われています。 このような状況でもあり、ハワイには社会的地位の高い日系人も数多く見受けられます。ハワイの新聞を見れば、日系人の名前がいくつも出ています。ハワイ州選出のダニエル・イノウエ連邦上院議員とメイジー・ヒロノ連邦下院議員は、苗字が示すとおり日系人です。テレビのニュース番組では日系人が司会を務め、州議会では日系人である議員がハワイの今日的問題を議論し、学校や警察や病院の多くも日系人が仕切っています。 このように、ハワイには至る所で日系人の存在感が強く感じられるような社会が出現しているのですが、このような場所は、世界広しと言えども、ここハワイ以外ありません。元よりハワイは、自然環境に恵まれ、地理的にも日本に近く、日本人観光客にとって魅力の多い土地ですが、何と言っても、日系人社会が営々と築き上げてきたこの人的社会的インフラの圧倒的充実振りが、ハワイの魅力の大きな要因ではないかと考えます。 無論、このような力強い日系人社会は、簡単に創り上げられた訳ではありません。ハワイ王国が滅亡し、1898年に米国に併合された後、とりわけ、最終的には戦争にまでエスカレートする程に日米関係が悪化していった時期においては、ハワイの日系人も、自らに対する強い差別に直面し、苦しむこととなりました。 こうした状況の中、米国に対する忠誠を証明するため、志願して米軍に入隊し、米国のために文字通り死力を尽くして闘った若者たちがいました。海上自衛隊に入隊した皆様の中には御存知でない方も多いかもしれませんが、ほぼ全員がハワイの日系人で構成された陸軍部隊が編成されました。第100歩兵大隊と言います。後に、米本土の日系人で構成された第442連隊戦闘団に編入されましたので、今ではこちらの「442」の方が一般的にはよく知られています。彼らは、欧州戦線に投入され、数多くの死傷者を出しながらも勇戦敢闘し、米国史上、最も多くの勲章を受けた部隊として名を上げました。 私は、こうした日系軍人の活躍が、米国における日系人に対する信頼、ひいては日本人に対するイメージの向上をもたらし、現在の強固な日米関係を可能にしていると強く感じます。実際、第442連隊戦闘団出身者からは、ハワイ州選出のダニエル・イノウエ連邦上院議員を始め、戦後、各界で活躍し、米国社会に貢献してきた方々が多く輩出されています。こうした方々の中には、米国内において日本文化の普及や日米間の友好親善に力を注いだ方も多く、そのような功績が称えられ、我が国から叙勲された方もいらっしゃいます。 さて、このように生み出された力強い日系人社会が、我々日本人にとってのハワイの魅力の源泉であるということをお話しした訳ですが、ハワイ在住の日系人側もまた、日本人旅行者がハワイ第一の産業である観光に大いに貢献していることに互恵関係を見出していることでしょう。日本が栄えれば栄える程、日本が重要性を増せば増す程、ハワイの日系人社会も自らの影響力の維持拡大に有利な状況を見出すことでしょう。このハワイに幸いにも出現している我々日本人とハワイの日系人の間の互恵関係を維持強化していくのが日本人、日系人双方の利益であると確信しています。我々ホノルル総領事館の活動も、大雑把に言えば、全てそのための活動であると言うことができるのではないかと思います。 パール・ハーバーに入港された際、皆様はハワイ日系人連合協会を始めとする多くの日系人の方々の出迎えを受けられたかと思います。戦前の帝国海軍の時代から、練習艦隊はここハワイに度々寄港していますが、その度に日系人から盛大な歓迎を受けたと聞いております。現在もまた、海上自衛隊の艦船は、練習艦隊に限らず、例えば環太平洋合同演習(RIMPAC)その他の訓練・演習のため、ハワイに寄港する機会が非常に多いのですが、そのような形でハワイを訪れた海上自衛隊の方々は、任務の合間を利用して、ハワイの日系人の方々との交流の機会を積極的に設けています。皆様も将来、必ずやこの地に再び、何度も訪れられるのではないかと思いますが、皆様方のハワイとの交流が素晴らしいものとなりますことを願っております。 4.ハワイと軍 さて、ハワイにおける日系人の功績について強調させて頂いたところで、後半の「ハワイと軍」の話に入りたいと思います。ここハワイは、言うまでもなく世界有数の観光地であり、我々日本人も、「ハワイ」と聞くとまず、そのようなイメージを抱くことが多いのではないかと思います。他方、海上自衛隊に入隊した皆様ですから、既に御存知かと思いますが、ハワイは、世界最強と言われる米軍の中枢組織が集中している軍事上の要衝でもあります。 米統合軍の中でも最大規模を誇る米太平洋軍司令部(PACOM)が、ここパール・ハーバーから少し内陸に入った場所にあるキャンプ・スミスに置かれています。PACOMは、米国西海岸からインド洋まで、また、北極から南極まで至る地球の約半分を占める広大な地域をその管轄としています。 PACOMの指揮の下には、陸軍、海軍、空軍及び海兵隊の各太平洋軍がありますが、それらの司令部も全て、このオアフ島の中に置かれており、ここパール・ハーバーには太平洋艦隊司令部が、隣のヒッカムには太平洋空軍司令部が、PACOMがあるキャンプ・スミスには太平洋海兵隊司令部が、少し東に行った所にあるフォート・シャフターには太平洋陸軍司令部が所在しています。 これらの司令部がそれぞれ、合計36カ国もの国々が存在している、アジア太平洋を中心とする地域に展開している各米軍部隊を指揮しています。因みに、在日米軍もまた、PACOMの指揮を受けています。あの有名な横須賀の第7艦隊も、太平洋艦隊の一部です。 また、司令部だけではなく、オアフ島中部にある大きなスコフィールド駐屯地には陸軍第25歩兵師団が、ここパール・ハーバーの隣のヒッカムには第13空軍が、オアフ島東部のカネオヘには海兵隊部隊が拠点を置いており、アフガニスタンやイラクといった戦地には、ハワイからも多くの兵士がローテーションで派遣されています。 この小さなハワイにこれだけ集中している訳ですから、当然、ハワイ経済と軍とは、切っても切れない関係にあります。ハワイにおける軍事支出は、2007年時点で約55億ドルに達しています。また、軍人、軍属及びそれらの家族が合計約10万2000人もハワイに居住しており、オアフ島の5.7%は軍事用地で占められています。 重要な米軍施設の多くがハワイに集中しているのは、ここが太平洋のど真ん中であるという地理的特性とは無関係ではないでしょう。本年1月にここハワイを訪れたヒラリー・クリントン国務長官は、岡田外務大臣と会談した直後、ハワイ大学構内にある東西センターで講演をし、アジア太平洋における米国の関与及びリーダーシップの重要性を強調していましたが、ハワイの米軍施設は、まさに米国がアジア太平洋に影響力を行使する上での拠点となっているのです。 さて、先程、今年は、現行の日米安全保障条約が締結されてからちょうど50年という記念すべき年に当たると申し上げました。我が国の安全保障の基本方針を定める「防衛計画の大綱」は、「我が国に直接脅威が及ぶことを防止・排除すること」、「国際安全保障環境を改善して我が国に脅威が及ばないようにすること」という2つの目標を掲げ、これを達成するための3つのアプローチとして、「我が国自身の努力」、「同盟国との協力」及び「国際社会との協力」を挙げています。 ここで、「同盟国との協力」とは、言うまでもなく日米安全保障体制を指しています。在日米軍部隊を指揮する司令部が集中するハワイは、まさに日米安全保障体制を支える柱の一つと言っても過言ではないでしょう。毎年、外務省・防衛省の文官や陸・海・空自衛官の出張者が多数、ハワイを訪れ、米軍関係者と意見交換を行ったり、日米共同訓練の計画を議論したり、訓練そのものをここで実施したりと、まさに日米安全保障体制の実効性を維持し、強化するための作業が、ここハワイで行われているのです。 これは、歴史を振り返れば、ある意味、非常に感慨深いことではないでしょうか。約70年前には、まさにこのパール・ハーバー米海軍基地を我が国が攻撃したことで、日米戦争が始った訳です。皆様は、戦艦「アリゾナ」記念館に行かれたことがあるでしょうか。1941年12月の旧日本軍による真珠湾攻撃により撃沈された戦艦「アリゾナ」の上に設けられている記念館ですが、戦艦「アリゾナ」が約1000人の軍人と共に沈没したままの状態で残されています。70年近く経過した現在でも、その船体から油が流れ出し、水面に浮かんできているのを見ることができます。 そして、その記念館のすぐ横には、戦艦「ミズーリ」が係留されています。1945年9月、東京湾に停泊していた、この戦艦の上において、日本が降伏文書に調印したのです。このように、「アリゾナ」と「ミズーリ」、日米戦争の始まりと終わりの象徴が並んで置かれているここハワイは、我々日本人が、第二次世界大戦に纏わる歴史問題に直面せざるを得ない場所でもあるのです。 今日、日米両国は、同盟国として繁栄し、かつての怨讐を超えて、かけがえのないパートナーとしての関係を築き上げています。この関係を維持、増進していくことが、我々日本政府にとっての安全保障上の最重要課題の一つですが、日米開戦の地であるここハワイが、今では日米友好のための作業の最前線となっていることに、感慨を覚えます。 さて、米軍のみならず、自衛隊にとってもそれだけ重要な場所ですから、現在、防衛省・自衛隊は、初級幹部の皆様の先輩である齋藤2等海佐の他、陸上自衛官2名、航空自衛官3名の合計6名の自衛官を連絡官としてハワイに常駐させています。彼らは、先程紹介した各米軍司令部で勤務しており、日本から訪れる政府の出張者をサポートしたり、ハワイで行われる自衛隊の演習・訓練に関する調整を行ったり、自衛隊にとって有益な情報を収集したりしています。 中でも、海上自衛隊に関しては、この遠洋練習航海は勿論、先程少し触れたRIMPACといい、毎年のように行われるイージス艦や潜水艦の訓練といい、ハワイにおけるオペレーションの機会が陸や空と比べると非常に多いのが実情です。私は、昨年8月末に着任したのですが、その後に限ってみても、昨年秋には潜水艦「やえしお」とイージス護衛艦「みょうこう」がハワイにやってきましたし、今年に入っても、皆様が来られる前に既にRIMPAC関係で護衛艦「あたご」と護衛艦「あけぼの」が寄港しています。 このように、海上自衛隊の艦船とハワイとの結び付きは強い訳ですが、こうした関係は、戦前の帝国海軍、さらには江戸幕府の軍艦「咸臨丸」にまで遡ることができると言えるでしょう。今からちょうど150年前の1860年、日米修好通商条約の批准書を交換するため、日本の使節団が米軍艦ポーハタン号と咸臨丸に乗船して太平洋を横断しました。この時、咸臨丸には、福沢諭吉やジョン万次郎も乗船していました。咸臨丸は、帰国の途上、ハワイに寄港したのですが、それ以来、戦前に至るまで、日本の軍艦のハワイ寄港は、50数回を重ねるまでに至ったということです。 前半において、ハワイと日系人について話を致しましたが、祖国である日本の軍艦が度々やってきたことで、彼ら日系人にとっては、どれ程心強かったことでしょう。先程も申し上げましたように、帝国海軍の練習艦隊もまた、ハワイに来る度に日系人から大歓迎を受けたということです。ハワイにおける海上自衛隊員と日系人との交流の歴史が遠く明治時代にまで遡るということを頭の片隅に覚えておいて頂ければ幸いです。 ここから東の方、ワイキキ地区の少し北にマキキ海軍墓地があります。皆様も今回の御滞在中に行かれる機会があるかと思います。そこには、こうした帝国海軍の軍艦に乗船していて、不運にも任務半ばで病に倒れてしまった軍人たちが眠っているのですが、やはりハワイの日系人団体である明治会の方々によって、しっかりと維持管理がなされています。ハワイの日系人と日本海軍・海上自衛隊との絆を象徴する場所なのではないかと思います。 さて、ハワイと日本海軍との関係の深さに言及してきましたが、ここで、戦前、日米開戦に至る時期において、ハワイ、しかも我が在ホノルル総領事館で活躍した海軍軍人、吉川猛夫海軍少尉の話に触れない訳には参りません。 吉川少尉は、皆様も学ばれた江田島、当時の海軍兵学校を卒業した後、病のために一度は退役したのですが、予備役に編入されて海軍軍令部所属となり、森村正(ただし)という偽名で在ホノルル総領事館に赴任しました。彼は、パール・ハーバーに在伯している米艦船の種類、数、停泊場所、動き等について報告するように指示されていました。 吉川少尉は、1941年5月から真珠湾攻撃の前日までの間、総領事館から東京に向けて軍事情報を電報で送り続け、オアフ島の北側から接近して攻撃することが有効なことや、毎週日曜日に最も多くの艦艇が在伯していることを指摘していました。実際の真珠湾攻撃も、このような彼からの情報に基づいて実施されたと言われています。 吉川少尉が偵察のために頻繁に利用したのが、ここからも見える高台にある日本料亭「春潮楼(しゅんちょうろう)」でした。彼は、毎日のようにこの料亭で飲み食いして泊まり込んでいました。監視の目を眩ませるために遊び好きを装うためですが、実は、2階の座敷から観光用の望遠鏡でパール・ハーバーの様子を観察していたといいます。この料亭は、「夏の家」と名を変え、今も営業しています。 このように、私が現在、総領事として勤務する在ホノルル総領事館もまた、真珠湾攻撃の準備の一翼を担ったわけであります。真珠湾攻撃が勃発した直後、当時の喜多総領事以下、吉川少尉を含む全館員は、米当局に軟禁され、当館は閉鎖されてしまいました。それから70年近く経った今、当館にスパイこそいませんが、日米の良好な関係の維持強化という任務は不変であり、自衛隊連絡官の皆様とも連携を取りつつ、日々任務の遂行に微力を尽くしております。
5.おわりに 最後に、皆様への餞の言葉を贈りたいと思います。68年前の6月4日は、ミッドウェー海戦が戦われた日です。皆様も、当地への航海途次、洋上慰霊式を営まれたものと拝察しますが、私は、この2日、ミッドウェー島で行われた米側主催の記念・追悼式に参列する機会を得ました。米国関係者に加え、日本からもミッドウェー生き残りの一人を含む旧海軍関係者等20名以上が参列しました。私には、米側建立の顕彰碑に、この戦いを制した米軍人の技、信念、勇気が称えられていたことが心に留まりました。スキル、フェイス、ヴァラーです。これらは、そのまま皆様のように祖国防衛の任にある者が常に留意すべき心構えを簡潔に示しているように思います。 中でも、特に、勇気(ヴァラー)の意味合いを皆様方にも考えて頂きたいと思います。米国には勇者を称える伝統があります。勇者に対する尊敬は、純粋で、屈託が無く、敵味方を超えた感情です。今年94歳の原田氏は、ミッドウェー海戦時、空母「蒼龍」所属の零戦パイロットで敵機を5機撃墜したそうです。最後は、海上に不時着して奇跡的に救助されたという勇者です。彼は、米国で真の勇者としての尊敬を受け、行く先々でサインを求められるとのことです。当地紙の一面に大きな写真入り記事で取り上げられてもいました。 同様に、米国では勇戦が誇り高く語られます。先の大戦で米軍は、勝ち戦の時が多かった訳ですが、勝ち負けというよりも、米軍将兵が勇ましく戦ったことを最大の誇りとしているのです。勇者、勇戦を称えることは、米国以外の国でも普通に行われていることで、人間社会の自然な営みとして普遍性を持つものと言えるのではないかと思います。 振り返って我が国の場合は、勇者の顕彰というよりも戦争犠牲者の追悼の趣旨が強調されています。原爆投下の日がその代表でしょうが、終戦記念日等も、この性格が強いように見受けられます。我が国近代の歴史に鑑みると、犠牲者追悼の思いが純粋なものであり、国民の声でもあることは明らかであり、我が国の伝統であると言えるかと思います。他方、私は、勇者の顕彰は我が国でも必要だと思いますし、他の国と同様、国防の任に当たるということが国民奉仕の最右翼に位置する誇り高きものであるとも思っております。皆様には、勇者の気概と誇りを持って任務に当たって頂きたいと思います。 皆様方の前途は洋々と広がっています。皆様方が、技を磨き、信念を保って、真の勇気を示し得るリーダーとして大成なされますことを願っております。 (了)
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