海上自衛隊練習艦隊実習幹部への講話
平成23年10月10日
在ホノルル総領事 加茂佳彦
1.
冒頭発言
いよいよ航海も大団円。私の講話よりも皆さんの感想を聞きたいぐらい。皆さんは既に色々な経験や講話をお聞きになっている。ならば、ここは、オーソドックスな講話は止めて、もう少し、斜に構えた話をしようと思う。皆さんにはこの後、当館荒領事が安全保障や日米同盟の見地からの当地の特徴や重要性に焦点を当てた当地事情説明を行うので楽しみにしていて欲しい。
ホノルルは軍の町だ。海軍の町だ。皆さんが海上自衛官のキャリアを展開されるに当たって多分最も関係の深い外国地の一つとなろう。ホノルルを最後の寄港地とする今回の練習航海の締めくくりに、私が日本の防衛を背負って立つ皆さんに、この地で、この時点において、何を申し上げるべきか、私なりに考えてみた。先ず、皆さんを100年乃至100年以上前のハワイに誘い、ハワイ関連の話題を二、三、紹介しつつ、最終的には、皆さんが現役自衛官として活躍されることになる21世紀中葉に向けてのこれからの30年、40年間はどういう時代となるのかにつき述べてみたい。というのもこの把握なくしては、日本の海上自衛官として何に心がけるべきかという皆さんの核心問題に向き合うことが困難になってくると思うからだ。
というわけで皆さん。私は、これから1897年の米国によるハワイ併合と1911年の中国辛亥革命について言及し、21世紀中葉もこの二大大国、米、中との関係の維持・管理、乃至は、距離の取り方が日本の安全保障上の要諦となることを述べてみたいと思う。そして、米中両国の戦略的思考・行動につき観察分析を怠らず、常に、冷静で的確な情勢認識を保持することの大切さを強調したいと思う。即ち、味方のやることだからと言って思考停止に陥ることなく常に客観的に見るように心がけることが必要だし、ましてや、実力をつけ圧倒しにかかる競争相手に対しては常に相手の真意や行為の本質を見出すよう努め、備えることが大切である。この講話では、この点を強調したい。
2.150年前のハワイ
100年前のハワイに焦点を当てる前に、150年前のハワイの状況を概観し、イントロにしたい。ハワイの歴史は古いが、ポリネシア系人がマルケサス、タヒチから独自の航海術を駆使してハワイ諸島に到来したのは1500年以上前とも言われている。彼らは絶海の孤島ハワイで、異民族侵入者もなく長い間平和に暮らし、独自の文化を育んだが、1778年にキャプテン・クックによるハワイ来訪が以後200年の激動のハワイ近世史の口火を切った。キャプテン・クックの出現時にはハワイ諸島には統一的な支配者はいなかったが、ハワイ統一の機運は高まっていた。そしてカメハメハ1世により1810年に漸くハワイ統一がなされた。これによりハワイ王朝が始まった。そして80余年後にハワイ王朝は転覆、消滅する。
カメハメハ1世の死後、ハワイには1820年にボストンからキリスト教宣教師団が入植し、白人文化が本格的に移植された。ハワイ王朝側が白人の知恵や技術を求めたことが底流にある。程なく、ハワイ王朝では、米、英等から招致したお抱え顧問が実権を振るうようになった。経済的には、当初ハワイは米国の捕鯨船団の補給基地として重宝がられたが、19世紀中頃までに鯨油の需要が落ち込むと、こんどはサトウキビ農園経営による砂糖産業が導入された。この活動を主導したのがボストンからの宣教師の子供達で、ハワイ経済の実権を握り、権勢を誇るようになった。彼らが、砂糖キビ農園の経営者として、中国人、日本人、フィリピン人などを農園労働者として移入した。日本人のハワイ移民が実現した背景には、この砂糖産業の興隆があった。
日本の鎖国を破ったペリー提督の日本への砲艦外交も19世紀半ばであるが、この日本開国にハワイが多方面で係わっていたことは、我々日本人の間で案外知られていない。ハワイに来航された実習幹部の皆さんには是非知っておいて欲しい。
鎖国時代の日本にとって、太平洋の真ん中に位置するハワイは外界との接触点であった。同様に、米国など諸外国にとって、ハワイが日本に関する情報収集前線基地であった。この相互方向での情報交換の立役者が日本の漂流民達であった。日本近海で遭難し太平洋での漂流を余儀なくされた日本の漁民や船乗りは、運が良ければ、米国の捕鯨船に救助され、ハワイに連れて来られた。彼らは、帰国の機会を窺いながら当地の文物を知り、日本の事情を先方に伝えた。富山の次郎吉、ジョセフ彦、中浜ジョン万次郎などは、英語や異文化摂取に才能を見せ、日本の開国という日本近世の画期に、余人を持って代え難い役割を果たした。
徳川幕府とペリーの交渉がまとまったのも、彼らを通じて事前にもたらされた米国に関する諸情報があったからこそであった。幕府側も、何もないところから米側と交渉を始めたのではなく、事前に一定の準備をしてきたのである。その意味で漂流者が提供した各種情報・言語スキルが果たした役割は大きかった。米国が日本に関心を示したのも漂流民から伝え聞いた日本との交易の魅力に惹かれたからだ。日本での金、銀の交換レートが国際相場を逸脱した破格に有利なものであることに気付いた米国商人は、開国後、この交易条件を押しつけ巨利を得た。開国後、程なくして、日本の金銀の多くは海外に流出した。ハワイを根拠地とした捕鯨船団も石油の発見による鯨油市場の暴落により衰退し、多くの捕鯨船を抱えた捕鯨業者は新規事業の開拓に迫られていた。既存の捕鯨船の活用を考えるなかで、彼らは、日本との交易を開くことにより手持ちの捕鯨船を貨物船として転用することを目論んだ。こうして日本を開国させ新たな商機にすることを企図した捕鯨業者が、連邦議会にロビー活動を仕掛け、ペリー提督による砲艦外交の実施に繋がったわけである。これが日本の鎖国を破り、開国につながった。このように、ハワイは、日米双方の文脈で歴史の転換を直接、間接に演出した土地でもあった。
3.1897年のハワイ併合条約
さてイントロが長くなってしまったが、ハワイを舞台に日米が民間レベルで初めて出会い、情報交換し、更に、米国が日本を近世の国際社会に引きずり出す役割を果たしたことを述べた。日米の歴史はこのようにして開始され、その後、色々な因縁に見舞われつつ、敵味方と立場を変え、今日に至っている。現在日米は、戦後50年以上に亘り日米安全保障条約を基礎とした日米同盟を形成する同盟国同士の関係にある。我々も米国については、この関係に基づき一定の先入観を持って眺めることが多いと思うが、ハワイを訪れられた皆さんには、一度114年前に米国がハワイに対して行ったことを先入観抜きで考えてみて欲しい。
現在ハワイは米国の50番目の州であり、ハワイが米国の一州であることは当たり前のように感じるが、考えてみれば、米国本土から何千キロも離れ、ポリネシア文化が根付くハワイ諸島がアメリカ合衆国の領土である必然性はない。1810年に興ったハワイ王朝は、19世紀的帝国主義が太平洋地域にも浸食してくる時代にあって、その生存を確保するのは容易ならず、1893年の無血クーデターで亡んだ。ハワイは、明治維新後、弱肉強食の国際世界に登場した我が国とは、夫々伝統と独自文化を有する新興国同士としての共通点もあった。日ハワイ両国とも白人顧問を重用したが、ハワイの場合は王族がキリスト教の導入に熱心で、宣教師家族等との婚姻関係を通じても彼らの影響力が強まった。彼らはサトウキビ農園経営などの経済利権を独占し、社会の実権を握るようになった。白人からハワイ系に実権を取り戻そうとしたカラカウア王やリリウオカラニ女王との対立が深まるなか、米国の砂糖税課税により既得権の喪失を危惧する米国系白人支配階級が、ハワイ王朝を取り潰して米国によるハワイ併合を実現せんとしハワイ王朝転覆を企てたのが1893年1月の事であった。自らが併合論者である米国公使がクーデター計画に加担し、米海兵隊や米戦艦2隻が軍事的圧力を掛けるなか挙行された無血クーデターで、リリウオカラニ女王は退位を決意し、ハワイ王朝は亡んだ。
当時のクリーブランド大統領は、米国によるハワイ併合に反対の立場から、クーデター指導部と米国公使により合意された併合条約を撤回させると共に、クーデターに関しての事実調査団をハワイに派遣した。同調査団は、クーデターの主因は砂糖産業の既得権益擁護のためであると断じるとともに米国公使等による陰謀加担を強く非難し、本クーデターが一般のハワイ住民の支持を欠いていることを指摘する報告書をまとめた。クリーブランド大統領は、リリウオカラニ女王の復権を企図して新たな米国公使を任命し、臨時政府の解散を促させたが、臨時政府は内政干渉であるとしてこれを拒否、クリーブランド大統領も武力介入までしてリリウオカラニ女王復権を実現させることはせず、結局、女王復権は実現しなかった。1894年に入り、臨時政府は窮余の策として共和制への移行を決断し、ハワイ共和国が誕生した。これをクリーブランド政権も認めたためハワイ王朝の復権は完全に潰えた。1896年の大統領選挙で、併合論者のマッキンリー大統領が選出され、1897年にハワイ併合条約が両政府の間で調印されたが、米議会では反対論も根強く一時膠着状態に陥った。ところが、1898年に勃発した米西戦争のなかでフィリピンが戦場となり、戦争遂行におけるハワイの中継基地としての役割の重要性が高まったこともあり、ハワイ併合条約は同年米議会で批准され、ハワイは米国の属領となった。
米国人が外国で自己の権益を守り、伸張するために、外国政府を転覆させることも厭わなかったこと、また、そのような時代であったこと、米国人の利益保護のため米国政府(在ハワイの米国公使)がクーデターに加担し、米軍を動員して外国政府を威嚇したこと、住民の支持を得ていない臨時政府(傀儡政権)を設立し、結局は併合、自国領に編入したことなど、正に剥き出しの帝国主義の手法が米国によりハワイで用いられたことは歴史上の厳然たる事実として押さえておくべきことであろう。勿論、クリーブランド大統領のように反帝国主義政策の遂行に心を砕いた人物もいたわけだが。
米国がハワイで見せたこの帝国主義的振る舞いは、100年以上経ち、米国及びハワイの繁栄の現実の前に幾世代も前の歴史的エピソードとして風化しているかに見える。確かに、現在誰もハワイが米国の一部であることに疑問を差し挟まないが、そこは、自由、正義、公正の大義を重んじる米国である。ハワイで生活していると、このハワイ併合の後ろめたさが、米国人の潜在意識の中に未だにくすぶっているのではないかと感じることがある。奴隷制や日本人移民排斥などと共に、米国社会の潜在的な負い目として残っているのである。
米国政府の屈折したハワイへの思いを象徴するのが、ハワイ州旗とハワイ州歌の例外的とも言える認知、尊重である。その他、当地で行われる公式行事には、ハワイの伝統的祈祷師による詠唱やフラ・ダンスの演舞、レイによる歓迎などハワイの伝統習俗に根付く様式が取り入れられることが多い。私は、この現象を米国政府の屈折した負い目のなせるわざではないかと思っている。特に州歌と州旗の尊重は、他州との関係でも際だっている。州旗が星条旗と共に掲揚される州はハワイ以外にもある。テキサス共和国は1845年にアメリカ合衆国(13州)と対等の立場で合併した。テキサス州民は、その州旗(ローン・スター旗)を合衆国旗と同じ高さて掲揚できることを今でも誇りに思い、実践している。しかし、州歌が合衆国国歌と同時にいつも演奏される州はハワイ以外にはあるまい。ハワイでは「ハワイ・ポノイ」という州歌がいまでも州民に愛唱されている。公式行事には必ずと言っていいほど国歌とともに演奏される。「ハワイ・ポノイ」はハワイ王朝時代の国歌であった。カメハメハ大王のために戦うぞという決意が歌い込められている。まだ法律として成立していないが、ハワイ系住民の優遇・権利拡張を目指す動き(「アカカ法案」)もある。ハワイは現在、多文化、多民族の融合が進んだ土地としてハワイ系(ポリネシア系)、白人、アジア系などの諸民族が調和的に暮している。かつては米国捕鯨船団の前線基地として栄え、現代では、米太平洋軍司令部本拠地として米国のアジア太平洋戦略の前線基地としての役割を果たしている。100年前は、台頭する日本に対する前線基地であったハワイは、その100年後の現代では中国と向き合う前線基地としての性格を強めている。その戦略的重要性は今後益々高まり、米国としても、そのロケーションは手放せない。「ハワイ・ポノイ」が常時唱われる理由もそこにある。
4.辛亥革命
さて、皆さん。本日がどんな日かご存じか。10月10日だから、日本では体育の日だ。今から47年前、1964年10月10日に東京オリンピックの開会式が開催されたことを記念して設けられた日本の祝祭日だ。米国では10月第2月曜日はコロンブス・デーという祝祭日だ。1492年10月11日にクリストファー・コロンブスが新大陸(サンサルバドル島、現在の西インド諸島)に上陸したことに由来する。そしてもう一つ。丁度100年前の1911年の10月10日は中国湖北省の武晶で武装蜂起が起こった日だ。これが辛亥革命の口火を切った。辛亥革命により、中国では270年続いた清朝支配が実質的に倒れた。紀元前以来続いてきた専制君主(皇帝)による支配が崩壊した日でもある。辛亥革命の指導者である孫文は中国、及び台湾の双方から国父として崇められている。この孫文の30年間にも及ぶ革命指導の年月が、ハワイや日本とも密接な関係を持っていたことは、辛亥革命の100周年にあたる丁度その日にハワイを訪れられた日本の武人達にも是非知っておいてもらいたいと思う。
孫文の長兄がハワイ移民(マウイ島)で成功していたこともあり、孫文は人格形成期の中学・高校時代をハワイのホノルルで過ごした。当地の進学校であるイオラニ・スクールを卒業し、現在のプナホウ・スクールにも半年ほど通い、キリスト教や民主主義など西欧文明に触れ、その文物を学んだ。因みにプナホウ・スクールにはオバマ大統領も通い卒業していることから、プナホウは孫文とオバマの2人の大統領の母校として有名である。中国人としての人格形成が疎かになることを恐れた家族が一旦中国(広東省香山県)に返して、香港で大学教育(医学)を受けさせた。医者となった孫文はマカオで医院を開業した。この頃から革命思想を抱くようになり、1894年にはハワイを再訪して革命組織である興中会を設立した。丁度ハワイ王朝が倒れた直後のことである。ハワイは孫文が少年期を過ごし自由や平等についての感化を受けた土地であり、孫文は中国革命の海外拠点の一つとしてハワイを度々訪れ、活動資金調達や革命組織のメンバーシップの拡大などの準備工作を行った。
日本と孫文の関係は、日本以外では殆ど知られていない。ハワイにおいても、孫文の革命活動を支えた海外拠点はハワイであるとの自負があるせいか、孫文が日本に10回以上行き、合計10年以上を過ごしたことは殆ど知られていない。孫文は、日清戦争の終結後の1895年に広州蜂起を企てたが失敗し、日本に亡命した。これが最初の日本行きだ。1900年には恵州で蜂起するがこれも失敗。再び、米、英で革命の活動資金の調達活動を行い、1905年には東京で、革命諸団体を糾合して中国同盟会を結成した。1911年に武晶蜂起が起こり、辛亥革命に発展し革命が成就した。孫文は日本を中国革命の準備基地とした感すらある。日本が100年前の中国革命の成就に大きな役割を果たしたことはもっと知られて良い。
孫文は、革命指導者ではあるが、実際の軍事行動を指揮したことはない。軍事的闘争に自ら参加したわけではなく、金集めと組織作り、更には理論武装などに専心した革命家だ。武晶蜂起の起こったときはアメリカ本土を旅行中であった。革命成功の報に接した孫文は、その年の終わりに帰国し、1912年1月1日に新たに立てられた中華民国の臨時大総統に就任した。1913年には中国同盟会を国民党に組織替えし、その党首となったが、大総統職を袁世凱に譲った。袁世凱が強権政治を行い、国民党を弾圧するに及び、1913年に袁世凱政府の打倒を目指す第二革命が始まった。袁世凱は議会を解散し、1915年には共和制を廃止し、帝政を復活させ、自らが中華帝国大皇帝に即位した。これに対し反袁、反帝政の第三革命が起こる中で、1916年に袁世凱が死去した。孫文は1917年には広東軍政府を設立し、軍閥の力を借りて事態を収拾しようとしたが、結局政府内の仲間割れをまとめ切れず、広東軍政府を追われた。
これが契機となり、以後、孫文は共産党への傾斜を強める。1915年の対華21カ条要求への反発から1919年には反日の54運動が起こった。その影響もあり、孫文は方針を変更し、「連ソ容共、労農扶助」を打ち出した。1923年には孫文・ヨッフェ共同宣言が上海で採択され、ソ連との連帯が強調された。ソ連の支援の下、同年、孫文は第三次広東政府の大元帥に就任した。1924年には第一次国共合作が成立。中国各地で割拠し独自の勢力を振るう軍閥への対抗の足がかりを得るとともに北上宣言を行い、全国統一を目指した。
孫文は1925年に「革命未だ成らず」という有名な言葉を残し、この世を去ったが、彼の革命家としてのキャリアを、1894年のハワイ興中会設立から死去した1925年までとすれば、31年間ということになる。そのうち、清朝打倒の辛亥革命までが17年、その後の国家統一活動が14年と、ほぼ半々の期間を「革命」成就のために腐心した。孫文の活動履歴は、中国革命成就とは複雑なプロセスであったことを物語る。異民族の支配を打ち破るだけではだめで、国の統一というもう一つの困難な課題があったからだ。彼の革命活動も、異民族である清王朝を退けること自体は比較的うまくいったが、旧主が居なくなってからが本当の試練の始まりで、漢民族統一国家の樹立に手こずった感がある。指導部内での権力闘争や軍閥の跋扈、ソ連共産党(コミンテルン)の干渉や日本の帝国主義的野心など、新国家中華民国は次から次へと諸困難に直面し、その処理に追われた。その過程で見せた孫文のハンドリングは融通無碍とも言えるものであった。軍閥と手を組んだり、ソ連共産党と手を組んだりと自らの信ずる目的達成のためには手段を選ばずといった実際的なところがあった。相手も孫文なり中国の内乱を利用しようし孫文に接近してくる訳で、狐と狸の化かし合いをしつつ生き抜く必要があった。幾度となく挫折を経験しつつ最後までしぶとく革命の最前線に身を置き指導力を発揮した孫文は、要するに人を利用することに長けた人物であったのだ。この側面をどのように評価するのかで孫文の評価にも濃淡が出てこよう。孫文は現在の台湾政府の元となる国民党を組織した人物であり、台湾では国父として崇められている。かてて加えて中華人民共和国においても中国近代化の父として高い評価を得ている。易性革命により王朝を繋いできた中国では前後する二つの王朝に同時に崇められる皇帝は基本的にいない。新しい王朝は直前の王朝のすべてを否定することで己の正統性を主張することになるからだ。孫文の機略に富んだ革命のスタイルが底流にあるのだろうが、台北、北京の双方が孫文を祖として仰ぐということは、台湾の国民党と中国の共産党は一枚皮を捲れば兄弟のような関係であると言うことなのかも知れない。
孫文の革命活動前期の活動はより明瞭で日本人にも分かりやすい。異民族支配に苦しむ漢民族が、自らの王朝を樹立したいとの思いを抱くことは正当であり、共感を呼びやすい。当時中国(清王朝)は、アヘン戦争後の中国を蚕食していた西欧列強により国の主権をないがしろにされていたわけだが、漢民族にすれば、そもそも清帝国自体が、異民族である満州族が漢民族の故地である中原に立てた王朝であり、二重の意味で、外国勢力による支配に苦しんでいたということであろう。そこに、清からも西欧からも自由な自分たちの民族国家を立てることを漢民族が民族の悲願として夢見ていたとしても何の不思議もない。
実は漢民族は、日本民族、朝鮮民族などを言うのと同じ意味での人種上の概念ではないので、正確な議論をしようとすると、さらに話がこんがらがる要素があるのだが、今はそこのところには立ち入らないことにする。
多くの日本人がこのような状況に置かれていた漢民族に同情し、漢民族が清王朝を倒して自らの独立国を立てること、また、日中が協力してアジアを西欧列強による侵略から守ることにアジアの将来を見出して、その実現こそ、日中が目指すべき大計略だと考えた。この大アジア主義は、岡倉天心のアジアは一つの思想にも表れている。西欧列強によるアジアの侵略が進む中、明治維新を実現し、日清、日露戦争を勝利した日本の存在乃至達成は、アジア各国の知識人、指導層に大きな刺激を与えた。アジア人によるアジア建設というスローガンは、その当時のアジアの時代精神であった。孫文が日本を革命の基地として利用したのもそのような事情と無縁ではなかった。日本の知識人、指導層にも、日本が主導してアジアを西欧列強から解放し、アジア人によるアジアの建設を目指すことを夢見るものが多数出てきた。アジアを構想することが知識人の間の流行となった。孫文に近づき、その活動を支援した日本人も彼らの支援が中国の旧体制を打破し、中国に興る正統で且つ新しい力と日本の力が結託することにより一層大きな力となってアジアの興隆を図る、アジア人がアジアを仕切る、自らがアジアや中国大陸のオペレーターとなり、自分の夢を実現するとともにアジアの大義に奉仕するというロマンに酔った。このような時代背景の下、200人とも言われる日本人群像が孫文の活動を支えた。宮崎稻天、山田純三郎、梅屋庄吉、犬養毅などが特に有名である。
1924年11月、孫文は神戸高等女学校で有名な講演を行った。孫文は欧米のアジア侵略を強く批判し、それに抗している日本を称え、日中の連携を核にしてアジア民族の団結を図り、それを力にして欧米列強の侵略をはねのけようと呼びかけた。東洋は道義を重視する王道の文化であり、西欧は覇道で功利強権を追求する。日本は富国強兵に努め、西欧の武力を学んだアジアで唯一の独立国家であるが、東洋の王道文明を歩むべきだと説いた。これが孫文最後の講演となり、いわば彼の遺言となった。
皆さんはまさかハワイで100年前の辛亥革命について日本の総領事からあれこれ聞くことになるとは思いもよらなかっただろうが、私は、皆さんに、このエピソードが21世紀の時代を読み解く際の手掛かりになると思いお話した。いよいよこのハワイ併合と辛亥革命という二つのエピソードを重ね合わせて、講話の核心に入って行きたい。
5.
米国と中国を研究すべし(味方と敵)
皆さんは21世紀の前半から中葉を社会の第一線として生きて行かれることになるが、この間、祖国日本がどのような歩みを示し、日本の周辺である東アジアの状況がどうなるのかは、海上自衛官として最も気がかりなことであろう。とにかくどの局面にあってもプロ意識に立脚し、与えられた任務を粛々とこなして行くだけだと皆さんはお答えになるだろうが、それだけでは不十分だ。皆さんの中には、やがてトップになられる方もいるわけであり、情勢をしっかりと把握分析し、戦略的な課題に的確に対処する上での指導力を発揮することが期待されている。
では何をどう準備すればいいのか。それは皆さんそれぞれに目標なりテーマを設定され、それに真摯に取り組めばそれでよいのであるが、私から何か一つと問われれば、それは、皆さんに米国と中国についてしっかりと観察し、勉強して欲しいということを申し上げたい。米国は、我が国の安全保障上の同盟国であり、味方中の味方だ。中国は、我が国のライバルであり、その台頭(軍事的能力、政治的影響力等)に如何に対処するかは、正負両面で日本の浮沈に深く関わる。その他、韓国も重要だし、豪州も大切だ。インドやロシアも無視できない。日本が周到に接近し、処理すべき諸外国との関係は多々存在し、そのすべてが重要なのであるが、皆さんの現役時代での米中の重要度は抜きんでたものとなる可能性が高い。米国及び中国について我々が考えるべきことは数多くある。例えば米国について、私のハワイ在勤中にも、米国についての新たな発見や心に刻まれた米国を米国ならしめている本質の一旦を垣間見たと感じることが少なからずある。「米国兵士は家族や平和のために戦うのではなく自由のために戦う」とか「空母ロナルドレーガンの乗組員5000人の平均年齢は21歳である」とか「米軍は自国民にも情報戦を仕掛けているのではないか」とか、私流の独断と偏見をご紹介したいという衝動に駆られるが、本日は、先程来お話してきたハワイ王朝転覆と辛亥革命の二つのエピソードから、何を引き出すかに集中したいと思う。
米国は第二次大戦の勝者として、日本に対しても戦争犯罪人を裁く東京裁判を主導した。7年に及ぶ日本占領を実施し、日本の言論・教育界を管理・監督し、軍国主義的残滓の除去に腐心した。自らの歴史解釈を普遍化・通説化して、歴史に落とし前をつけ前に進む、という作業を行ってきた。その過程で抜け落ちた、あるいは、見えにくくなっていることがある。それは、米国もかつては容赦のない帝国主義者であったことや、日本やアジアで抱かれた人種差別撤廃や大アジア主義への思いなどを、「敵側の政治宣伝」として切り捨ててきたことだ。そこに消しがたい実体もあることを見ようとしなかったのは、米国の態度として盤石であったとは言えないものがあるように思う。
確かに日本は首尾一貫していなかった。当初の大アジア主義から逸脱し、自らもアジアにおいて西欧列強と同じ行動を取り、真の意味でのアジアの救世主とはなり得なかった。元々日本は、中国などとアジアの力を糾合して自らが中心となってアジアから欧米勢力を駆逐し、アジア人によるアジアを確立するという大義を信奉してはいたが、中国の内乱など直面する現実の前に次第にアジア諸国の覚醒なり実力涵養を待っていたのでは自立自存すらおぼつかなくなると考え、自らが中国などアジアで帝国主義的積極行動を起こして行った。他方、日本は、開国の時から遵法精神旺盛な国であった。西欧列強が、彼らの仲間内で帝国主義的行動のルールとして整備してきた法体系も含め、西欧の価値基準を進んで受け入れた。それが不平等で自らに不利なものでもルールにチャレンジせずに従容として受け入れた。まさに、和魂洋才であり富国強兵を目指した。西欧列強が自らに都合の良いように築き上げた既存の西欧列強レジームに自ら主要プレーヤーとして参加することに関心を示し執着した。その結果、短期間で西欧文明の精華を学び、自家薬籠中のものとし、一定の成功を収めた。しかし西欧列強が日本を彼らのクラブに入れることは無かった。日本を彼らと対等の仲間として迎え入れることはなかった。この人種的、文化的構造違和を克服できずに日本は、西欧列強の利害と直接対立する行動を取るに及んで、太平洋戦争にまで事態がエスカレートしてしまった。
辛亥革命の起こった100年前の日、米、中は、アジア方面でそれぞれ必死だった。日本は帝国主義下の新興国として、米国はアジア方面への進出に野心を持つ帝国主義国として、中国は列強に蚕食されつつも漢民族王朝樹立を目指す新生国家として。
日米は100年前から30年かけて中国を巡って争ったと言えなくもない。蒋介石の国民党は結局、連携相手として日本ではなく米国を選んだ。日中連携が破綻したことで日本は欧米列強のアジア侵略を糺し、アジアに正義をもたらすという大義を失うとともに、米中と戦うはめに陥り、結局敗れた。米は蒋介石国民党を自陣に引き入れることにより、白人対非白人という人種差別が問題なのではなく、民主主義対ファシズムが問題だとの主張を通しやすくなった。それから100年後、攻守ところを変え、今度は米中が主要アクターとしてアジア周辺の戦略構造を規定するような状況が生まれている。今後の30年は、穿った見方をすれば、米中が日本を巡って争うことになるかも知れない。現在、日米は一心同体で、日米と中国のせめぎ合いがどう展開するかという方が現実的かも知れないが。それでも鳩山元首相の提唱した東アジア共同体構想は、日本の立ち位置を、従来の米寄りではなく、真ん中付近に変更することを意味するジェスチャーと捉えられ米国の反発を呼んだ。何故米国が本気で反発したのかは、米国にとっては戦後常に不変の定数であった日本が米中関係の文脈での変数になり、それにより米国の政策が影響される可能性が生じることを心配したからではないか。また、この心配は絵空事ではなく、状況によっては生じうると分析していることの証左なのかも知れない。
日本が米中を天秤にかける。日本にそんなまねはさせられない。そもそも米国の国際情勢管理の大戦略の一つは、一定地域で圧倒的な勢力を持つ国が出現しないようにすることであった。地域で大国が出現し、周りの国と対立関係が生ずれば、弱い国(国々)を支援するというのが米国のやり方だった。第二次大戦の欧州部でもアジア部でも同じだ。それで均衡を回復させ、結果的に米国に対抗できるような勢力の台頭をチェックするというわけだ。ソ連を崩壊させた後、旧来の意味での国家間での勢力均衡の問題は消え去ったが、21世紀に入り、中国の台頭という新たな事象が起こりつつある。この事象に如何に対処するかは、唯一の超大国米国の最大の関心事だ。旧来のパターンからすれば、周りの弱い国々を支援し中国が野放図に勢力圏を拡大することを阻止する方向で諸政策を方向付けるであろう。勿論、米中の関係は軍事面だけではない。経済面では複雑な相互依存関係を形成しており、洗練されたアプローチが求められている。ソ連の場合以上の困難さと巧妙さが必要となってこよう。但し、方向としては、アジア太平洋が中国の勢力圏になるような動きには、そうならないように施策を打って行くのが今後も米国としての政策の基本となるのであろう。
それでも中国の勢力拡大が止まらない場合はどうするか。また、その可能性も少なからず存在する。この場合は、お互いの勢力範囲を認めるような取引がなされる可能性がある。所謂G2体制への移行である。米国も第一次大戦前には欧州との関係でモンロー宣言を発出し、ラ米に関する米国の特別利害を認めさせた。そうなると、先年中国の海軍提督がキーティング前太平洋軍司令官に持ちかけたように、太平洋を東西に二分割し、中国は西太平洋、米国が東太平洋をそれぞれの勢力範囲として管理するという二大超大国間での勢力均衡が図られることが現実味を帯びてくる。その時、日本は線引き上、中国の勢力範囲内の海域に入ることになり、このG2化に向けての動きは我が国の安全保障を揺るがす深刻な問題となるであろう。こうした事態が実際に21世紀中葉までに起こるのか、もっと先の観念的な仮説にすぎないのかを見通す能力を自分は持ち合わせていない。新たなアクターの登場や連携(コオリション)の形成などの新展開もあるかも知れない。が、21世紀中葉に向けて中国の実力、影響力が益々増大し、アジア太平洋地域の戦略環境の底流にこの方向でのベクトルが観察されることは間違いなかろう。
さて、その中国だが、実績を積み上げ自信を深めてきている。日本も100年前はこんな感じだったのかと思う。でも中国と日本の違いもある。私が着目する大きな違いは、日本は、西欧の法制度や政治思潮を普遍性ありとして進んで受け入れたが、中国は西欧文明に代わる自らの新文明を世界に打ち立てることを究極の目標にしているように見えることである。米国にとっての中国の扱いにくさは、欧米側の土俵になかなか上がらないことであろう。因みに米ソ冷戦時代のソ連はそういうことは無かった。共産主義も西欧文明の一部として、その基底をなすコロンブス以来の西欧文明500年の成功に疑問を差し挟む事はなかった。西欧社会が創出し、洗練を重ねてきた法体系や思想等は、政治・経済体制上の差異はあってもソ連にも基本的には有効だとの認識を有した。中国は、西欧が過去500年の地球を仕切り、特に近年200年は圧倒的な地球上の主人として振る舞ってきたその結果が現在の世界秩序を形作っており、現在世界の常識となっている思想、法律体系などは、普遍的というよりも、あくまでユーロ・アメリカン・セントリックな一価値体系であり、国際社会での力関係次第で変わりうると考えているかのように見える。
勿論中国は計略に富む国だ。慎重に且つ息長く、準備を重ね立ち位置を測る。このような100年先の国家の大計をいきなり真顔で強硬に主張したりはしない。西欧文明の恩恵はできるだけ享受しつつ、でも、巧妙に且つ大胆に将来の欧米と対抗しうる地域規模での中華の実現を目指すのだ。中国の手法は、漸進主義である。現在の世界標準とは異なる中国流のやり方を先ずは自国内に及ぼし、それを近隣諸国との係争地、海域に及ぼし、自力を蓄えつつ勢力範囲や既成事実を積み重ね、行く行くは、アジアや中東アフリカなどでの自国の勢力範囲を欧米に認めさせることを目指すというところではないか。自らの勢力圏内では、自前の独自ルールで仕切るのである。より長期の目標としては、世界規模での中華の実現もあるのであろうが、先ずは、地域規模で、欧米がかつて享受した影響力と支配的な立場を得るのが政策目標なのではないか。
我が国を悩ませる中国の領土・領海関連の主張もこの視点から眺めると腑に落ちる。我が国の主張は、国際法など現在の国際社会が依って立つレジームに基づいているが、中国は、そのレジーム自体を相対的なものと見なして、我流の主張を並列させている。我が国が現行ルール上の合法性を主張しても、中国は、その現行ルールそのものの妥当性を疑問視する戦法なのだ。だから、尖閣問題でも、これは歴史的に中国の領土だと不明瞭な根拠に基づく主張を先ずは立てて、この状態で持久戦に持ち込み、やがては道理をひっくり返すつもりなのであろう。正に、ゲームのルールを変えようとの立場だ。自分が言い出すルールに皆が従うまで気長に主張し続ける戦略だ。中国の実力が増せば増すほど、中国の主張が通るものと見透かしている。
6.
結語
さて、皆さん、長話をだらだらとやってしまったが、安心して欲しい。やっと結語の時間となった。無理矢理、取りまとめる必要もないのだが、格好をつけたい。
孫文は大アジア主義を説き、日本に東洋王道を行く国としてアジアを主導せよと説いた。日本は、諸般の事情で、西洋覇道を選んだが、失敗した。それから100年後、今度は中国が、西洋覇道を選ぼうとしている。西欧がやったことを自分達もしたいと言うわけだ。西欧文明が作った古いルールを捨て去り、自分に有利なルールを提示し、世界に従わせようというわけだ。100年前は、人種差別反対という、正義があった。日本は、それを活かし切れなかった。100年後、中国は、人種差別にその主張の正当性を求めることはあるまい。支配国と被支配国、帝国主義国と非植民地国、この構図を引き合いに出す理論武装の方がより説得力がある。アジアに加えて、イスラム諸国やアフリカ諸国等、この主張に共感を抱く国も出てくるだろう。もちろん、これまで西欧文明が中核にあるとはいえ、世界人類全体の共有財産としての価値体系、法体系を一朝葬り去ることは容易ではない。建設的でもないだろう。しかし、この先進国対後進国の構図はすでに、国連、G20、地球環境問題などの場でも示されることがあり、中国の台頭とともに今後益々後進国や持たざる国の声が組織化され、大きくなって行くものと思われる。
日本はどうするのか。アジア諸国、新興国のソート・リーダーとして、たった一人、100年を駆け抜けてきた日本。遵法精神旺盛で圧倒的な規律と団結を誇る慎み深き我日本は西欧文明の下に位置していないが、近年はその枠組みの中で、心身ともに成長を遂げてきた。西欧文明が中核ながらも、東洋文明等の他文明をも包摂する現在の国際秩序と法体系は人類全体の公共財である。日本はこの公共財の建設と維持に尽力してきた。この立場を我が国が離れるべき理由はない。日本の歩んだ過去100年の変遷を思うと、日本こそ、東洋王道の道を歩み、世界文明に独自の貢献を行う事の出来る国であると今更ながら思わずにはいられない。いまこそ孫文の檄を噛みしめるべきだ。
以上
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